豊平地区町内会連合会

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中川昭一 「豊平の歴史」

1.札幌開祖は豊平川の番人  
 
 江戸時代、私達の住む北海道は蝦夷地といわれ、主に蝦夷人といわれたアイヌの人々が住む地であった。蝦夷地は海の豊富な資源や、山の資源にも恵まれた未だ未開の原生林に覆われた地であり、日本の食糧調達の地として昔から本州に北前船などで広く交易されてきた地である。特に、生鮭・干鮭・鰊・昆布などの魚類、また熊や鹿などの毛皮類などの交易が盛んに行われていた。
 明和4年(1767)から9年間、大坂の木材商・飛騨屋九兵衛は豊平川上流、真駒内奥地から床柱や建築材などの大木を伐りだしている記録も残っている。
 石狩川河口(現在の江別)にあった箱館奉行所の石狩役所へ安政4年(1857)、荒井金助が調役として就任した。当時札幌近辺は未開の地であり、アイヌの小屋が数軒あったのみで、室蘭から千歳、豊平を通り発寒、銭函から小樽、余市・岩内へまたイシカリ・ユウフツを往復する小道があり、漁場へ行く出稼人が多く通っていた。
 安政4年、このサッポロ越新道の開削とともにトヨヒラ通行屋の普請工事が着手されたが、4年中に中途のまま道路も通行屋の工事も中断されていた。金助はこの豊平川の渡し守・通行屋の番人として志村鉄一を任命した。
 石狩役所は樺太までの管理があり、安政5年、ロシア船が樺太に来航して永住の気配があるとのことで、調査の命令を幕府から受け、石狩役所は士分8人・雇人20人が向かった。しかし、樺太の厳しい寒さなどで23人が凍死、5人が奇跡の生還をした。その中の1人に志村鉄一がいたという。
 その後の安政6年に志村鉄一は豊平川の番人として定住したようであり、鉄一は足軽格となり2人扶持を給与され、夜具なども準備された。和人として札幌中心部に初めて住んだ人として札幌開祖と言われるようになったという。
 
2.開拓の功労者
 未開の森林が続く豊平川東岸に定住した志村鉄一親子三人は、鉄一が通行屋番をして、息子が船の渡しを担当していたようである。西岸の渡しは吉田茂八の家族三人と居候の三平爺さんが住んでいて、主に三平爺さんが渡しを担当し、茂八は猟師として熊やキツネなどを取って毛皮商売をしていた。後に土木工事を請け負い、創成川に「吉田堀」の名を残している。
 当時の豊平川は本流(豊平側)と支流(中央区側)があり、中州に太い丸太を立て、コクワのツルを繋ぎ、このツルを伝って渡し、対岸に大声で連絡して旅人を渡していたという。役人やアイヌは無料で渡し、旅人からは渡し賃をとっていた。しかし、渡し賃を払わぬ不届き者がおり、昼食を取っているうちに勝手に船を出し、渡って係留せずに逃げていくため、船が流されて不明となることがあった。
 また、春の雪解けの鉄砲水で夜中のうちに大水となり、船が流されてしまい、開拓使に始末書を出すこととなり「情状やむをえまい」とのことで無罪となった裁判記録も残っている。明治2年7月、新政府は北方開拓と防備のために開拓使を設置、開拓判官に島義勇を任命した。
 寒さ厳しい10月(新暦の11月15日)に銭函に到着、新道係・営繕係4名の小主典が吉田茂八宅を宿として札幌の開拓を開始した。
 この時、志村鉄一が案内してコタンベツの丘(北海道神宮付近の丘)に登り、神社予定地と札幌平野を展望し、札幌本府の位置を見定めるために協力するなど、札幌開府に協力している。
 しかし、初冬の開拓のために志村鉄一の管理する通行屋を創成川畔に移設して開拓使仮本陣を建てた。明治4年4月には初めて豊平の渡し場に橋が架かったため。鉄一は職務と住居と失い、一時的に定山渓の僧・美泉定山の所に寄寓したとも言われている。鉄一は「橋守願い書」を出して明治7年10月まで橋守として働いたが、その後に鉄一はある冬の朝に死去し、妻も不明で息子も間もなく亡くなったという。
 開拓に功労のあった志村の姓が無くなるのは惜しいと、平岸の中目文平は次男の春三郎を明治12年に志村家養子としたが、その後、中目家も長男が死去して後継ぎが無くなったため、明治23年に養子解消の「廃家復籍願」を豊平村に提出した。その書類が現在も残っている。
 
3.変容する町並み
 明治2年、島義勇判官による札幌開拓はわずか4カ月余で止まったが、明治4年の岩村通俊判官着任とともに計画が本格的に始まった。開拓使庁舎・工業所など官用地と商店などの町屋地などを碁盤の目になるように道路を計画し、街づくりが進められていった。5月には豊平川に初めての橋がかかり、平岸・月寒・白石には開拓者が入植し、開墾の土音が響いていった。
 豊平地区は月寒・平岸・広島村・恵庭村などからの農産物や林産物を札幌へ運ぶ中継地であった。当時交通機関は馬であり、馬に関する商店が多く、泊りがけで来る人と馬がとまる宿屋もあり、豊平で日用品や農具などを買って帰る便利な地で、肥料・雑穀・種屋・縄工場・鉄工場・病院など商工業の町として発展していった。
 同じ明治4年、開拓次官となった黒田清隆はアメリカに渡り、時の農務長官ケプロンを開拓顧問として招き、トーマスやアンセチル等と来日し、開拓事業の推進と諸調査の指揮にあたった。
 明治11年まで開拓使の御雇外国人は76人にもなるが、明治9年に札幌農学校を開校して教頭として招いたウィリアム・S・クラークには日本の若者に諸外国の進んだ学問を学ばせた。それは農業だけでなく、物理学・獣医学・治水土木学など開拓に必要な学問とともに簿記学・弁論術・修心学などもあり、すべて英語で行われ、ノートも英語で提出しなければならなかった。明治18年には北海英語学校が開校され、南4条西2丁目の豊水小学校立ち退き跡に移転した学校は中学校卒業資格取得のため、明治38年に北海中学校として認可された。
 その後、生徒の増加により、明治41年に豊平の地に31400坪の新校舎・グラウンドが完成したのである。当時豊平地区はおよそ800世帯4800人であった。
この豊平にこのような話がある。「豊平市街があまりにも静かだ。鍛冶屋のトッテンカンの音が一つも聞こえない。『それっ』と言うことで北海中学のグランドにやって来ると案の定北海中学と他校の野球試合が始まっていた。豊平市街の鍛冶屋は全部戸を閉めて応援に来ていた」(豊平小学校百年誌)との記録がある。
 開拓当時から家屋は全て木造で柾屋根であった。豊平では明治・大正時代に3回もの大火が発生している。明治33年5月、豊平村14番地のアメ製造業の佐々木方のカマドから出火した火災は235戸を焼失する大火となった。大正8年の大火では96戸の焼失家屋があり、当時の北海タイムス5月14日の記事によると「札幌消防組全員、平岸消防組、札幌警察署長以下全員、道庁警察部ほか教習生等60名が消防・破壊に協力、月寒25連隊の消防中隊ほか2個中隊が駆け付け、北海中学は出火とみるや直ちに全生徒を挙げて罹災者の救助に務め、消火に至るまで家財の運搬に助力した」とある。幾多の災害などがありながら豊平の町は発展していった。
 
 
4.電車開通で発展するまち
大正7年、札幌は北海道と共に開道50周年迎えるため活気があった。すでに北海道は235万人、札幌には10万人を超える人が住み、本州と何ら変わらない街ができ生活していた。  札幌には明治42年に定山渓水力発電所ができ、電燈がともったが、函館には既に電燈がともり、大正2年には電車が開通していた。  時の北海道庁長官俵孫一は、何とかこの50周年記念大博覧会8月1日開会に間に合わせ札幌にも電車を走らせようと、馬鉄会社の助川貞次郎に打診した。苦労の末、開会後の8月12日3路線で開通した。博覧会は大盛況で電車も大好評、満員の電車が各会場へ走った。  豊平線は、南3条東3丁目までの開通で、その後大正13年11月、新しくなった豊平橋を渡り大門通(2丁目)まで開通、翌年には平岸街道(6丁目)まで、昭和4年に定山渓鉄道豊平駅(8丁目)前まで開通し定山渓温泉への交通網がつながったのである。大正7年に開通していた定山渓鉄道は、豊羽鉱山からの鉱石や木材の運搬と客車で温泉客を輸送していたが、市電豊平駅前までの開通で一層便利になり、また市民が豊かになったこともあり、戦争で一時減った観光客は戦後昭和25年頃からまた増えていったのである。 豊平の街は豊平〇条〇丁目で表示されているが、北海学園のある地域は旭町、その奥豊平川側が水車町と言う名がついている。この地区は主に林檎園などの農地であったが、宅地化されてきて町の区切りと丁目を付けることになり、リンゴの旭の名を付けることになった。
 川岸側には粉を引く水車小屋があった名残に水車町と名付けた。一方北海中学に通学する生徒は札幌市内全域から徒歩で豊平橋を渡り通学していたが、 豊平の街は豊平〇条〇丁目で表示されているが、北海学園のある地域は旭町、その奥豊平川側が水車町と言う名がついている。この地区は主に林檎園などの農地であったが、宅地化されてきて町の区切りと丁目を付けることになり、リンゴの旭の名を付けることになった。川岸側には粉を引く水車小屋があった名残に水車町と名付けた。一方北海中学に通学する生徒は札幌市内全域から徒歩で豊平橋を渡り通学していたが、電車の延長で便利になり通学生はこの電車を利用して通うようになり、毎朝豊平駅前から学校まで生徒の行列が続いた。
 創立時は250名であった生徒も昭和11年には1250名にもなったのは、当時の戸津高知校長が「人が教育出来ないというものを本当の教育」との心で生徒を受け入れ、多くの人材が育った。スポーツでは何といってもロスアンゼルスオリンピックの三段跳び金メダリスト南部忠平やプロ野球の若松勉、スキーの和田芳恵、芸能人では坊屋三郎、益田喜頓などがいるが、ここでは寒川光太郎を紹介したい。  本名菅原憲光は昭和元年卒業、小説「密猟者」で道内初の芥川賞受賞、開拓判官島義勇と豊平川の渡し守志村鉄一との札幌開拓時代の痛快な苦労話の短編小説「札幌開府」を発表している。鉄一は札幌に初めて住んだ和人として歴史に残る人物であり、豊平橋横に石碑が移設建立されており現在の豊平を見つめている。

 
 
5.遭難兵士の慰霊碑発見
 函館の中川組が開拓使から札幌開拓の建築土木工事を命ぜられ、明治2年大岡助衛門を大工頭として130名余の人夫つれて札幌にやってきた。函館の五稜郭(函館奉行所)などを建設した中川組は当時蝦夷地の土木工事を行っていた一番の業者であり、信頼があったのである。
 札幌では、札幌本陣、開拓使本庁、道路開削など主要な工事を行っていたが、明治4年大岡助衛門は独立し大岡組起こした。そして開拓使や豊平橋の建設なそを吹き受けたが、当時建物は木造で屋根は柾屋根であり、ひとたび火災が起きると大火になる。防災のための不燃建築n石切山の札幌軟石の切り出しを行い大儲けしている。その後助衛門は明治8年豊平の地に8千坪の土地にお寺を建て(経王寺豊平4条4丁目)喜捨(寄付)している。
 地域の人々にはお寺や神社は先祖を祭る、無くてはならないのであり生活に密着していた。明治17年豊平の人口も増えてきたので阿部仁太郎が中心となり翁王寺境内に、小林小源太先生と児童12名で寺子屋を建てて地域のこどもの教育を済めたのである。これが現在の豊小学校の始まりであり、後にこの寺の境内には、相撲の土俵や豊平連絡所(現ちづくりセンター・地区会館併設)や豊平消防署、入口横には豊平交番などがあり、朝は地域の皆さんがラジオ体操のため遠くからも集まる豊平の中心的な地であった。
 また、平成16年地域のお年寄りの話から、豊平川で起きた月寒25連隊兵士が豊平川で遭難した慰霊碑がこのお寺の裏墓地で発見された。明治37年2月、日露戦争が開戦となり月寒連隊では兵隊の訓練を藻岩山で行っていた。  当時、豊平川には豊平橋しかなかったため、連隊は真駒内の山鼻渡船場から藻岩山へ登り行軍訓練を行うべく豊平川を渡し船で渡っていたが、5月2日の訓練で重装備の上、小舟に20人も乗ったため船は転覆、3人が溺れて死亡すると言う事件が起きた。  当時の新聞によると、2人の遺体は発見されたが、1人はとうとう発見されなかった。その後盛大な葬儀が行われたが、不幸な事件のため軍には詳しい資料が残っていない様で、この慰霊碑について何も記録がなかった。
 正面には遭難兵士鎮魂碑とあり、横面の碑文には当時の事件の記録が書かれ、裏面にはこの碑も建立に協力した14人の名前が彫られている。札幌市で盛大な葬儀が中央区の西本願寺で執り行われているが、49日法要はこの寺で執り行われている。どのような事でこの地にこの碑が建てられたのか、当時の豊平村の有志が亡くなった遠く長野県の2人、野幌の1人の出身者慰霊するために建てたのであろう。

 
 
6.スキーの街札幌  
 来年は、北大スキー部創立百周年を迎える。明治41年にスイス人ハンス・コラー氏がドイツ語講師として北大に就任してきた。その時、教材としてスキー技術書を持参してきたもので、翌42年春にはスキーが届いた。ストックは無く、後にストックは作ったようで使用法も不明であったが、コラー先生の話術が大変上手い講義でスキー術の研究が学生達に広まったのである、が、先生にスキーを滑って見せてほしいとお願いしたが、なかなか見せてくれない。実技は苦手の様であったが、札幌郊外でスキーを滑り転倒している写真が残っているのは、学生にせがまれて滑り、転倒したところを撮られたのであろう。  学生達は豊平橋を渡った所の馬橇屋にスキーを4~5台作らせ、後に三角山でスキーを滑ったとの記録がある。
 一方、大正6年3月には6名が羊蹄山にスキー登山をしている。当時豊平には馬具屋、馬橇屋、蹄鉄屋など技術職の店が多数あり注文したのだろう。そして6人の学生が発起人となりスキー部創立を大学文武会総会で可決され、事務手続きのうえ(明治45年)大正元年9月に北大スキー部は発足したのである 。昨年北大スキー部OB会長から、百年記念誌を作成するので豊平の古い地図がないであろうか、町の馬橇屋を調べてほしいとの話があった。 当時豊平の馬橇屋は鷲田馬車馬橇店と内田馬橇店である。
 鷲田馬車馬橇店の二男鷲田日出久さん(74歳)は
「私が子供のころ、山の手の北大スキー部合宿所に行き手伝わされたことを覚えている。父は何かと北大との関係があり、感謝状をいただいて家にあったことも覚えている」とのこと。札幌で初めてスキーを製造したのは鷲田さんであったのか、残念ながらいまは建物も変わり、父はあまり古い資料を残さなかったので何もないとのこと、当時の鷲田馬車馬橇店は現在車の修理販売業として繁栄している。内田さんは、中の島に代が変わり住まわれている。   
 その後、スキー部は登山と共に冬山のスポーツとして市民に受け入れられ、スキー場ができ、多くの学生や企業の団体、若者に広まっていった。  昭和4年12月7日、41団体1,966人の会員で札幌スキー連盟が発足した。会長は当時の札幌市長橋本正治氏で、事業の第一が宮様スキー大会開催であり、以来83回も続いている大会で今日では国際公認大会となっている。
 そして昭和47(1972年)年2月には世界35か国1,128名の選手(日本選手90名)が参加して冬季オリンピック札幌大会が開催され、世界にスキーの街札幌が知られることとなった。  札幌で初めてスキーを製作したのは豊平の地であったのであろうか、豊平の歴史がまた一つ増えたようである。
 
 
7.札幌祭り山車巡行昔も今も  
 毎年6月は北海道神宮例大祭、いわゆる札幌まつりの季節で15・16日に開催され、札幌にも短い夏が来たと北海道の人々は感じるのである。  明治2年北海道開拓の神として函館から開拓判官島義勇が自ら奉じ雪の中原生林を越え小樽の銭函に入り、一時ここに奉安し、その後札幌に移され、明治4年5月14日札幌神社と名が付き、9月14日、現在の円山の地に遷座された。開拓三神をおまつりしていたが、昭和39年明治天皇をおまつりし、北海道神宮と改称され北海道の総鎮守として尊崇されている。
 このお祭りの巡行、札幌市内31地区の中で年番を引き受ける10祭典区ほどが廻り当番で行っている。豊平地区は第八祭典区であり、当番となっている。昨年10月に菊水地区から引継ぎを行い、北海道神宮事務所の指導を受けて準備をしてきた。まず役員を決っていする、最高責任者を講長と言い、以下渡御、儀典、用度、交通などの役員が決まり、神輿である4基の鳳輦、猿田彦、稚児なご600名になる渡御行列計画が出来る。またコースを決め、その他準備をして各祭典区や関係機関に案内をするなど計画を進めてきた。 日本人は山を神霊として崇拝してきたが、まつりに神聖なる山の模型を作り賑やかに繰り出したのが山車(だし)の起源と言われている。札幌まつりは明治11年から始まったが、山車がいつ頃から始まったかは記録がないので分からないが、10年代に始まったと思われる。現在8台の山車があるが、明治末期から大正の初めに造られた物で、大正7年には12台があったと言う。
 豊平には一台あるがその歴史を見てみると、昭和の始めころ、豊平橋横の阿部与之助家の土地に小屋を建て、7・8・9祭典区の共有の山車があったが、戦争のため魔祭りは昭和18年で中止となってホコリを被っていた。22年祭りは再開され、24年豊平祭典区が年番となった。豊平にあった山車は使用出来ない程であったので、第1祭典区の山車が2台あるとの事で、(実際には第大通祭典区であったらしい)借りて巡行した。その後2・3年は借り物の山車でまつりに参加していたが、買ってほしいとの話があり百万円、10年年賦で買い入れた。山車には衣装58枚と、人形(加藤清正・弁慶・菊水・不明一体)が付いていたが、山車には傷みがあり、手直し、塗り直した。  現在は加藤清正の人形が豊平の山車として親しまれ、今年は6月16日北海きたえーる前を出発し美園、豊平から頓宮、4丁目三越前、大通りへと札幌の街を華麗に巡行する。
 
 
.歴史を刻む2基の石碑

平成16年、経王寺墓地で発見された遭難兵士鎮魂碑の他にも石碑があった。この碑の2つ横にあった學壱太田文之助碑である。横面の碑文は年号や一つひとつの文字は読めるものもあるが文章としてはほとんど読めないので、専門家にもお願いしたが、独特のもので不明のまま3年が過ぎたある日、豊平小学校の創立80年誌の座談会の記事にこの事件のことが語られているのが分かった。
 「そのころだったね。あれは火薬の勉強がおわったあと、児童が教室でいたずらしていた。たまたま廊下を歩いていた太田さんに命中したわけだ。ちょっと例のない事件で大騒ぎ・・・・校長が責任を取ってやめたな。」とある。碑文によると明治37年11月24日、座談会の文の様に事件が起き、14歳の文之助君に当たり、死亡してしまったのである。
 明治37年、日露戦争開戦となり日本は戦争一色となったが小学校でもこの様な勉強をしたのであろうか、どの様な経過はわからないが翌年4月建立と彫られてあり、台座石には建立に協力された23人の人々の名前が彫られている。当時国道沿い3丁目にあった床屋の子どもであったということが判った。地域の人々が哀れんで協力し、建てた物であろう。
 それから3年程過ぎた初冬のある日、お寺の斎場の場長さんからお寺の納骨堂の裏の草刈りをしたところ古い石碑が出てきたので見てほしいとの話があり、翌年雪解けを待って見たところ、非常に古い碑があった。四角い石碑の正面に馬頭観世音とあり、裏面には施主中川源左衛門・今村元吉、横面には明治19424日建立とある。今村元吉は不明であるが、中川源左衛門は函館の土木建築業者「中川組」で札幌開府為に札幌へ派遣され開拓使庁舎等を建てた人物であり、また消防団を結成し市内の防火のため活躍された人物である。札幌市内には610余の碑があるが、馬頭観音碑50余。札幌市ほかの資料を調べたところ、明治24年の碑が一番古いものであった。
 明治4年札幌の開拓が本格的に始まり生活が落ち着き、神社仏閣が出来、その後開拓に苦労させた馬に感謝した時期を考えると、明治19年建立のこの碑が市内で一番古い馬頭観音碑であると思われる。またこの碑の横には「宗祖日蓮大菩薩」という同じ高さ85cm四角柱の石碑があり、裏には「清居士霊位」の文字が彫られていただけである。これはこのお寺、日蓮宗北海身延妙法崋山・経王寺の宗祖の碑であり、清居士とは当時このお寺の重要な故人なのであろうか。馬頭観音碑と一緒に建立されたと思われる。知られずに今日までいたので、お寺ではお守りする為、現在は2基を本堂前の祠に移設し手厚く管理されている。

 
 
9.札幌保育園誕生

明治372月、日露戦争が開戦されたが、国や道は出征家族の生活扶助の一つとして保育所の開設を奨励した。札幌区役所は開設を検討したものの終戦となり実現しなかった。しかし函館慈恵院が1年ほど開設した様であるが、資料が残っていないので詳細は不明である。また軍人遺族会が13歳未満の児童の保護として孤児院を開設し、幼児も保護された記録が残っている。
大正11年倶知安裁縫学校を経営していた大石スクは札幌で勉強中の長男が病身で看病のため時々出札しなければならなく、虚弱な長男を一人置く訳にいかないと判断し、札幌に住むことを決断した。札幌では長男の影響もあってか保育園の開園を志した。当時札幌は不況で空き家が多くあった様で、中央区南1条東4丁目の島口某氏の大きな建物を無料で借りることが出来た。この近辺は東に行くほど細民街が多く、その2丁下がった所には遠友夜学校(校長新渡戸稲造・貧児教育施設)がある地域でもあった。 
 そして、大正12年3月更に細民、貧民街がある豊平町4番地(現豊平4条1丁目)に移転し、倶知安の裁縫学校を清算し本格的に保育事業に専念していった。8月には5条2丁目移転、翌年8月に6条3丁目に移転した。北海道で初めての保育所が誕生した。
 この頃のことをスクの娘妙子は次のように語っている。「この頃から1日2銭、ひと月50銭の託児所になり、後援会も出来ましたが、賛助会員せ制で毎月10銭ずつ集めるのも大変でした。夫婦共稼ぎ多い所ですから、朝7時から夕方6時までということになっていても、朝4時頃には子供を連れて来るのです。玄関に鍵をかけておくわけにもいかない、私どもがまだ寝ている、そこへ置いていくのです。子供達とまた寝る。夜8時、9時になっても引き取りに来ない、1日おんぶして、おしめを洗濯してやって、本当に年中無休で働きました。労働基準法もなにもあったものではありませんでした。でも、働いて子供の世話をして、それでいて楽しい。こんないい仕事はないと思っています。」
 スクは大正14年、開園わずか3年、45歳で亡くなった。その後、園長を引受けたのは戸津高知氏である。当時北海中学、札幌商業の校長、市議会議員でもあり、幼児教育を深く理解されており、その後23年間も務められた地域の名士でもあった。この間、保育園の土地購入、苗穂保育園の開設など幼児教育の向上、園の発展に務められた。昭和22年に園長は大石日出に、そして大石徹となり現在は大石和江氏が園長となって、大石スクの創立した精神を守り120名の子どもたちが毎日元気に通っている。

 
 
10.豊平共済墓地

開拓が始まった明治2年、札幌では死者が出ても葬る場所がなく、家の周辺か近くの山林に埋葬する時代が続いた。また、僧侶もいなかったため、近所のお経の読める人で形ばかりの葬儀を行うか、遠く石狩から僧侶を呼ぶしかなかった。石狩には5つのお寺があり僧侶もいたので夏場には何とか来てもらえたが、冬場には雪のため身内で済ませる状態であった。明治4年山鼻村に暁野墓地が出来たが、札幌から遠いとのことで、あまり利用されず依然として付近の山林に埋葬する者が多かった。
 明治10年には墓地設置の届が必要になり、札幌区では区民共済墓地を東本願寺北隣に設置し、元開拓使役人であった駒崎小兵衛が民営の火葬場を設置したため、便利で区民にも好評であり、暁野墓地は山鼻屯田兵の専用墓地となった。明治17年には太政官布達「墓地及埋葬取締規則」が公布された。内容は墓地は人家より60間(108メートル)以内にあってはならない、墓穴は6尺(1.8メートル)以上深く掘ることなどが決められたが、それでも自宅の裏地などに埋める一般庶民が多かった。東本願寺横のやがて満杯となり、札幌区は新しい墓地を探さなければならなく、当時の豊平村の民有地(現道立体育センター北海きたえーる、4町8反歩)4万7520平方メートルの広大な土地の払下げ受け、「札幌区豊平共済墓地」として明治19年に設けられた。翌年には民営化葬場も現在の八条中学校校舎地の所に移転、開設されて区民には大好評であり、明治38年には豊平村が800円で買収して村営火葬場となった。
 札幌で葬儀が行われると行列が組まれ豊平橋まで来ると遺族代表が挨拶し、一般参列者は帰り、遺族が豊平墓地に行き埋葬した。墓地にはおよそ5,800の墓碑がったが、その中には開拓時代の功労者や外国人、歴史に名前のある人々がいた、永山武四郎は屯田兵育ての親であり、第2代の北海道長官であった。新選組隊士であった前野五郎と足立民治(林太郎)の墓もあり、会津藩士白虎隊士山浦常吉の墓は現在里塚霊園に移設され静かに眠っている。島崎藤村初恋の人、佐藤輔子は小説「春」のモデルにもなったが24歳で亡くなり、豊平墓地ほぼ中央の付近に墓があった。この墓地はやがて豊平の街なかとなり、環境に悪いと地元から市議会に移転の請願が出され、昭和61年移転終了まで27年掛かったが、8割が里塚霊園に、後は無縁仏と、それぞれの墓主の元で処理された。
 跡地は道民のスポーツ体育施設北海ぃたえーるとなり、スポーツ大会や各種祭典などが開催され利用されている。南西角地には地元小学生デザインの墓地跡記念碑があまり知られずに建っている。

 
 
11.地域の守り神 豊平神社

本年7月豊平神社は鎮座130年を迎える。昨年6月に北海道神宮より、豊平神社宮司(故三橋文憲宮司)が、「御分霊奉迎祭執行届」のコピーを頂いた。このコピーは、「明治18年豊平村に於いて五穀豊穣のため仮宮を建設し札幌神社から御分霊を奉迎し、7月14日・15日に祭祀をしたい」との届を札幌神社杉戸大角宮司より札幌縣令調所廣丈氏代理札幌縣大書記官佐藤秀顕氏に宛てた文書である。明治2年、新政府は北海道の開拓使を設置し判官島義勇を本府設置のため北海道に派遣され、札幌の街づくりが進められたが、現在の国道36号線豊平橋付近からの豊平地区にはいち早く永住者が増えてきた。
 豊平の開拓功労者の1人である阿部仁太郎は明治4年、19歳の時に寿都でに鰊漁の漁師をしていたが不漁のため、札幌に行くと金儲けが出来るとの噂を聞き、若者4人で野宿をしながら、岩内、小樽を越えて9月、札幌にやってきた。さし当たり炭焼きをして生計を立てたという。やがて札幌の人口も増えて、炭焼き業も順調になり大儲け、財を成すようになった。場所を山鼻から月寒山林に移し、現在の豊平神社地に住居を構え、住居横に祠を建てた。信仰心厚い仁太郎は毎朝神に感謝し1日の仕事を行ったという。
 明治17年、地域の有志により神殿を建設し、無願神社として完成し認可された。宮司は札幌神社など他の神社との兼任時代が大正時代中頃まで続いたのである。大正8年三橋吉四郎が社掌(宮司)となり。村社に昇格、地域の守り神として繁栄し、この7月14日を夜宮、15日に祭典が斎行され地域の祭りとして続けられてきた。

※令和7年、補正追記

現在3代目(三橋文憲)、4代目(三橋昌功=文憲氏の二男)と続いたが、いずれも病気により幽したため、現在厚別神社三橋國昭(文憲氏の弟)宮司が兼務宮司を務めている。令和7年には、5代目宮司として三橋充佳禰宜(文憲氏の三男)が宮司に昇格就任予定である。
 祭神としては阿部仁太郎によって父の郷里の青森県猿賀神社から分祀された上毛野田道命
(かみつけのたみちのみこと)と山林の自然神衹神(おおやまつみのみこと)を祀っていたが、地域では豊平、美園、平岸など米作が進み豊作を祈願して五穀豊穣の自然神倉稲魂神(うがのみたまのみこと)祀り、今日の豊平神社祭典が続いている。

 仁太郎は水稲栽培も手掛けたが、欠くことの出来ない水利が思う様に確保できず、4か村水利組合を結成し、18本30㎞を超える
用水路を苦労のすえ完成させ、組合長として地域の生活用水、水稲用水の確保などに貢献している。明治39年には月寒村一部であった滝野の山林、1,800ヘクタールの払下げを受け開発を行い、後にこの開墾地を小作人に開放して喜ばれたが、現在その一部の土地は「滝野すずらん丘陵公園」として、青少年育成施設となって、夏はキャンプ場、冬は歩くスキー場などとして活用されている。また、経王寺境内に寺子屋(豊平小学校の前身)を建て子どもの教育を進めた、郵便局を設置し、弟の由太郎に任せるなど、地域のために貢献されてきたのである。

 
 
12.国道36号線

豊平には室蘭、千歳から札幌、小樽に通ずる国道36号線がある。安政4年銭函から千歳間の道路開削が行われたが、石狩役所調役荒井金助より一時中断された後、通行屋建築と共に開削され、銭函までの道が整備された。明治2年に開拓使ができ、札幌の街づくり始まったが、御雇教師ホーレス・ケプロンの提案により札幌に通ずる主要道路を設けるべきとの提言で、明治5年函館~森間、及び室蘭~札幌間の札幌本道が成した。札幌市民には室蘭街道の名で親しまれるようになったのである。
 明治4年中山峠を通る本願寺道路も現如上人と信者、アイヌの人たちに等の協力により開削されたが、多くの難所がある山道であまり利用されなかった。多くの開拓者や漁師が室蘭から苫小牧、千歳から月寒の坂を下り、豊平の川を渡り札幌や銭函の漁場や小樽を行き交う重要な道路となっていった。豊平はこの道路の豊平川を渡る重要な地であり、古くからこの地を通る人達にトイヒラ、松浦武四郎の探検日誌には、樋平として出てくる石狩平野を流れる石狩川の支流、豊平川の地名として知られていたのである。やがて札幌の街が首都として発展し、この道路も重要な交通路として多くの人達に利用されるようになった。
 明治10年には札幌・小樽間に鉄道が引かれたが、貨物や石炭などの輸送や地方へ行くときの乗り物としての利用が主であった。昭和26年、札幌(千歳)~東京間の航空旅客輸送が再開され、千歳空港へ行くこの36号線が唯一の道路であり交通量が益々増えていった。時代は車の発達と共に、バス、トラックの交通量の増加、そして自家用車の発達で益々道路はその対応に応えなければならなくなった。
 昭和26年には一般国道に指定され、翌年には舗装道路としての工事が始まり昭和28年に完成した。これは駐留軍の要請で「自動車道路」として短期間に工事を完了することが義務付けられていたのであり、当時札幌千歳間には一日2千台の車が通行していた。豊平~月寒間はコンクリート、月寒~島松間はアスファルト舗装など交通状況、地形などを考慮し、本格的な自動車道路として工事は進められた。日本での本格的な厳寒地の舗装道路の完成であり、スピード出せる道路であったため「弾丸道路」と言われた。
 昭和46年には増え続ける車と翌年に迫った札幌冬季オリンピックにあわせ小樽~札幌・千歳~北広島に北海道縦貫自動車道が開通し、札幌にも高速道路ができ、昭和48年には4車線となり、旭川への高速道路もできたが、豊平を通る36号線は現在も多くの車が走っている。

 
 
13.生活用水であった4号用水路

 明治4年、平岸に岩手県水沢から62戸203人開拓民が入植し生活が始まった。3棟の長屋に取り敢えず入居、共同の炊飯で開墾が始まったが、まず生活用水の確保に困り、早速深い井戸を3か所程掘ってみたが飲み水には適しなく、断念しなければならなかった。毎日豊平川や精進川へ水を汲みに行かなければならなく、炊事、洗濯、お風呂にと多くの水が必要で、特に冬の水汲みは大変な重労働であった。そこで人々は精進川から水を引く用水堀50余町(5.3㎞)をわずか40日で明治6年8月に完成させたのである。平岸から豊平を通る用水路堀は現在の北海学園前道路の右側を通り菊水に入る用水掘で、4号用水路(堀)と名付けられ地域住民に親しまれ、生活用水として昭和30年代まで多いに利用された。
 明治20年代になると開墾が進み、東裏ちくに住む重延親子が坊主山の下から水を引いて水田の耕作に成功したことで近隣の村人も稲作の水田作りが始まり、用水堀の要望が高まり豊平村、白石村、上白石村など、農作物への水も多く使用しなければならなくなり、平岸村と共に明治26年、「4箇村聯合用水組合」を結成し水の利用調整をする事になった。阿部仁太郎が組合長になって調整し1号から18号の用水堀が出来、漸く地域の水対策が出来たのである。やがて平岸には林檎園、豊平、美園には田圃、白石には畑や林檎園が出来ていった。
 豊平の4号用水路は現在の第一幼稚園あたりから国道と平岸街道の間を抜け、渡辺建設の裏を通り、豊陵公園の横から経王寺の裏を抜け中学校通りから3丁目を菊水に抜けていた。豊平の人々は生活用に利用されていたが、春には小魚を取り、堀の岸には柳の木が生茂り、夏の暑い日にはこの小川に脚を浸して涼を取っていた。毎日の洗濯に、子どもの遊び場としても多いに利用され、秋には平岸の林檎園で落ち林檎が流され、下流の人々は重宝して皆さん広い喰いしたと古老の話も残っている。
 やがて、住宅が増え水道が出来、昭和38年、平岸では交通量が多くなったため、この用水堀を地下に埋設、支流を美園方面に変更したため豊平地区には水が流れなくなり、どぶ川となってしまったのである。夏には悪臭と「カ」や「ハエ」の発生に悩まされ、市に埋め立てを陳情したがうまくいかなかった。但し、地元で埋め立てて良いという事になり、住民がツルハシやスコップで埋め立てを行い衛生問題も解決した。生活に密着した用水堀、住民に潤いと思い出を作ってくれた水路は今は思い出と、少しの記録が残っている。

 
 
14.札幌の大地主 藪惣七

私の手元に地元の町内会の創立記念誌がある。「ふれあい八二」の題名が付いているが、この町内会の住所は豊平の1条から3条の2丁目から3丁目の町内会であり、以前どうして八二と付いているのかと聞かれたことがあるが、当時はあまり知らなかったので答えることが出来なかった。当時この付近には八二稲荷神社や八二館という映画館があり、八二湯や八二市場もあった。映画館はヤブ館とも言われ、映画と共に芝居も興行し人気があったが、どうしてその様な名前であろうと多くの人たちは思いながらも親しく呼ばれていた。
 藪惣七はこの付近の土地を所有していた札幌の大地主であり、地域の住民は藪をヤブ、八二と置き換えて親しみやすく呼んでいたのである。映画館はテレビの普及で昭和50年頃閉館し、市場はスーパーや大型店の進出で、浴場は平成時代まであったが自宅風呂の普及と店主の高齢化で閉店となった。
 藪惣七は福井県浜四郷村字野々村で穴田四郎衛門の五男として生まれ、幼い時に親戚の藪権右衛門の養子となった。明治7年大金を携えて渡道し、札幌へやって来た。最初、米穀雑貨店商を営みながら道庁及び陸軍の土木建築を請負い、大儲けする。明治18年、すべての職業を廃し農業と金融事業を興し、その後、宮崎、福井、石川各県から移民を招き1千町歩の耕地を有した。
 その後、石材会社を興し、後にその石材を輸送する札幌市街軌道株式会社に発展したが、当時はまだ馬車軌道として助川貞次郎が経営していたこの会社を、大正7年北海道知事俵孫一より開道50年記念に何とか電車を走らせてくれないかとの懇請で、藪惣七が資金を提供し、請われて社長に就任し、なんとか電車を走らせた。その後、昭和2年札幌市が買収し札幌市電となった。現在は地下鉄も出来、札幌市の交通事業発展の基礎を作った人物でもある。また藪商事会社ビルを大正13年に建設し、現在も札幌で最古の鉄筋コンクリートビルとして中央区南1条に三誠ビルと名前が変わっているが、昭和63年に札幌観光資産として認定され、立派に保存されている。また多年札幌区総代人を務めたが、他の公職にはつかなかったと言う。
 明治44年感ずる所ありと仏に帰依し、名を堯祐と改め、大正2年札幌区に堯祐寺を建立し住職となった。また社会福祉事業に尽力、昭和3年には堯祐幼稚園(のちの相愛幼稚園)を創立するなどをして晩年を過ごされた。

 
 
15.鋼鉄製豊平橋

大正13年多くの水害で幾度となく流されていた豊平橋が3年の工事を要して鋼鉄製タイドアーチ型の橋となって完成した、明治43年の大水害で市内の橋のほとんどが流されたり、壊れて被害を受け、豊平橋も以来仮橋の時代が続いていたのである。完成式には時の若槻内務大臣も出席され、カワラには6万人余の完成を祝う人々であふれた。この橋の完成と共に現在の中央区東3丁目まで来ていた電車の路線も橋を渡り豊平の大門通りまで繋がった。昭和4年には豊平8丁目定山渓鉄道豊平駅前まで伸びた。明治4年開拓使は札幌の開拓に入ってきた労働者を引きとめるため、すすきのに遊郭を設置したが大正7年開道50周年を迎え、博覧会を開催しようと中島公園に会場を予定したが途中にある遊郭を移転させることになり、白石の菊水地区に移転したのである。
 豊平橋を渡り1丁下がった大門通り停留所を左側に入ってゆくと3mの門があったという。ここへ通ずる道を大門通りと呼ばれ、通りの左右や仲通りには一杯飲み屋や旅館、映画館などが立ち並び歓楽街となっていた。この近隣の土地を所有していた藪惣七は、映画館「豊平劇場」建て翌年「八二館」と改称した。当時映画は無声映画であり人気がないと芝居や落語、旅芸人の興行行われていた。特に人気があった「小野夜嵐・関謙三郎劇」は2日間4幕の人情劇、まま子いじめで、劇場ではこの話は劇ですので皆さん物を投げないで下さいとあらかじめ案内するだが、いじめの芝居になると、なぜお前はいじめるのか、と見物客から座布団、ミカンなどが投げられ、舞台に上がって役者に迫る者もいた程であったという。当時花菱あちゃこが八二館で兵隊漫才をやって大人気。後にテレビが出来て、あの「あちゃこ」だとわかったが、当時はとても上手かったのを思い出すと父が言っていた、とは、地元の婦人の話である。月寒に陸軍連隊が出来、休日になるとすすきのへ、一杯飲んで豊平橋へ、ここから馬車で月寒へ帰る。電車が出来て豊平駅からの馬車にかわっていった。菊水に遊郭が出来ると豊平の街が栄えたのである。全盛期には37軒の遊郭があり、遊女の外出には交番の検番札を受け時間を確認していた。戦後、駐留米軍の命令で公娼制度は廃止されたが、駐留軍人の危険防止のため10軒余の宿が残っていたようであるが、昭和27年、赤線廃止条例で消えていった。

 
 
16.やがて消えゆく歩道橋

平成26年3月4日豊平地区横断歩道橋に関する連絡協議会では、豊平8丁目の横断歩道橋について地元の意見として開発局に対して撤去を要望することを決定した。5年ほど前に地元町内会から歩道橋を撤去してほしいとの要望が地域の議題として連合町内会にあった。会議の結果、関係者による協議会を開催することとなり、商店街組合、近隣町内会、豊平小学校、交通指導員会、交通安全母の会、札幌道路事務所、調整を取って戴く豊平区総務企画課、オブザーバーとして豊平警察署、建設局道路管理課などが参加され昨年10月21日の第1回の会合の結果、撤去に反対はなかったが、冬期の利用状況を調査し結論を出すこととなった。
 安政5年、銭函~千歳間の道路開削がなされたが、本格的には明治2年末に蝦夷から北海道と名が変わり、開拓使ができて札幌の本府建設が始まり、小樽から札幌、千歳への道路建設が明治4年に本格化したのである。函館から札幌への道路は、室蘭、苫小牧、千歳から札幌へと通ずる重要な道路であり、やがて飛行機の時代になると一層空港へ行く車の増加により北海道一番の交通量となっていった。
 明治13年1月には幌内からの石炭輸送のため手宮から幌内までの鉄道工事が始まり12月には手宮~札幌間で汽車の試運転行われたが石炭輸送を主として運行されていた。明治37年助川貞次郎は札幌馬車鉄道合資会社を設立、石切山から軟石を運ぶ路線で営業し、大正3年には札幌停留場から中島遊園地など、3路線を運行した。大正7年開道50周年には電車が運行され、昭和2年には札幌市が買収し市電となり、昭和4年には定山渓鉄道豊平駅前までの路線が通じたのである。
 やがて車の時代となり、昭和28年に36号線を通過する車は1日3,900台であり、翌年の弾丸道路の拡幅と舗装と共に電車線路が複線化となり、昭和33年には1日12,200台と増える車のため、昭和41年に道内初の横断歩道橋が完成し、市電の停留所は道路の真ん中の歩道橋から乗車するようになった。昭和41年には冬季オリンピック札幌大会が決定し44年には地下鉄建設が始まり市内の公共交通は電車からバスや地下鉄の時代となり、豊平線も昭和43廃止された。以来、歩道橋の利用者は減り、現在でも1日50人弱、車は1日6万台の交通量となり歩道橋の役目を終了し消えてゆくこととなろう。

 
 
17.福祉事業の生まれた街 豊平

私が中学生の昭和30年頃、友人に豊平生まれと言えば6番地の息子か?貧乏人の町、と言われた記憶がある。昭和2年の新聞に「豊平市街は一本町であった。豊平橋の袂から西に折れて行く水車通へゆく方面に、汚い小路が一本あったきりである。ひどい貧民長屋がたむろをなしていて、夏は臭くて通れなかった」とO氏が記している。明治の初めから豊平は、豊平橋を渡り国道の左右に農具や馬車馬橇製造、鍛冶屋や味噌醤油の製造業の店が並び繁栄していたが、一本南の仲通りに入ると軒先の低い長屋があり、身なりの貧しい人々が住まっていた。
 この近所から通学していた同級生もそのような服装でいた思いがする。この豊平橋の近辺のスラム街の貧困者のために、大正時代から民間の有志が社会福祉事業を行っていた。岩井鉄之助は明治41年、17歳の時宮城県から札幌に来て、6番地で兄の荒物雑貨屋の手伝いや日雇いをし、20歳の頃から近くの生活困窮者の世話を始め、雑品回収業を行い、いささか儲けたので東京の日暮里、三河島の貧民窟を視察し、大正12年に低家賃の長30戸を建てた。しかし、どうしてもお金の無い者もいて、昭和2年に愛隣館無料宿泊所を建設し、廃品回収や棺桶担ぎなどをさせ、食事代を払わせて住まわせていた。現在は母子寮、保育園の福祉事業が継続、運営されている。
 大石スクは、大正11年42歳で札幌で乳児10名を引き取って乳児院のような仕事を始め、後に豊平の地に保育園として開設し、近隣の貧民、細民など近所の低労働者の子どもの保育所を北海道で初めて開設した。また、大正15年北大医学部の松江、友松医師と看護婦、助産婦、医学生の居力のもと、豊平6条3丁目74番地に教会風の建物で週3回愛隣館無料診療所を開設し、地域貧困者の診療にあたった記録がある。目の治療患者が多く一日50人程の患者があったが、後に実費診療所と呼ばれいたこともあったので、多少の治療費を徴収したこともあったのであろう。
 また、豊平橋を渡った東4丁目には明治27年、北海道大学・新渡戸稲造教授が豊平川沿いの貧家の未就学子弟の教育施設として遠友夜学校を開校されて、以後51年間、1,200名の若者を育てた。このように、豊平川を挟む地域には低所得者層の住民が多かったが、地域の人々の為、社会への奉仕精神が自然に生まれ、活動者や施設が出来ていったのである。

 
 
18.私が育った思い出の豊平

市電豊平8丁目終点の西側仲通り生まれた私は、小学校4年生までここで戦後の慎ましい生活や、大雪で1階の屋根まで雪が積もり部屋が暗くなる程の冬を経験しながら育ってきた。定山渓鉄道豊平駅が市電豊平駅終点の向かいにあり、寿山系温泉へ行く人々や鉄道沿線石山方面に住宅ができ、通勤の人々も増えていった豊平の中心地でもあった。毎朝市内に通勤するサラーリーマンと北海高校、札幌商業高の生徒がぞろぞろと学校まで続く姿が印象にあり、小さかった私には大きな学生が大勢通学するなーと感じて見送っていた思い出がある。
 昭和23年、新教育制度により6・3・3・4制となり、それまでの中学は高等学校に変わり、新しく中学校が義務教育に、北海学園でも学生帽に黄色い線の入った可愛い中学生が通うようになった。また、東京に転勤する兄の見送りでこの電車停留所で撮った写真が私のアルバムにあるが、当時は私も小さかったので札幌駅まで送らず、ここで撮って別れて以来、兄は東京の人となって暮らしていた。やがて家の都合で移転する事となり、1か所移転の後、現在の学園前仲通りに住み、以来ここから小学校、中学校へ通学する少年時代を過ごした。中学校では陸上部に入部したが、新しくできた学校で未だ校舎建築中、当然グランドも使用できない未整備で2学期になり何とか使える様になったが、野球区などの練習と重なり、調整しながらの部活で不自由でであったため、学校の練習が終わった後、北海高校でのフランドが使用していないのを確認し、勝手に走っていた。昭和30年頃、北海高には大きなトラックがあり、その中の東側にポプラの大木が1っ本あり、北側にはサブグランドと野球場が、野球場では毎日練習している姿と時々他校との試合が開催されていた。
 夏には豊平川で開催される花火大会の上空に上がる大きな花火がグランドからも見える。近所の人々もグランドの草むらに腰を下ろして見物でき、朝早くには札幌時計台の鐘の音が聞こえる場所であった。いつの間にか、古い北海中学校の校舎が北海道開拓の村に移転保存され、コンクリートの校舎に変わった。昭和45年札幌オりンピックを控えて学園前の道路が拡張され、樹木や街路灯が整備されてコンクリートの近代的な道路となったが、その代わり緑が少なくなり平成6年には地下鉄が通り便利な街へと変わっていった。

 
 






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