1.札幌開祖は豊平川の番人 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
江戸時代、私達の住む北海道は蝦夷地といわれ、主に蝦夷人といわれたアイヌの人々が住む地であった。蝦夷地は海の豊富な資源や、山の資源にも恵まれた未だ未開の原生林に覆われた地であり、日本の食糧調達の地として昔から本州に北前船などで広く交易されてきた地である。特に、生鮭・干鮭・鰊・昆布などの魚類、また熊や鹿などの毛皮類などの交易が盛んに行われていた。 明和4年(1767)から9年間、大坂の木材商・飛騨屋九兵衛は豊平川上流、真駒内奥地から床柱や建築材などの大木を伐りだしている記録も残っている。 石狩川河口(現在の江別)にあった箱館奉行所の石狩役所へ安政4年(1857)、荒井金助が調役として就任した。当時札幌近辺は未開の地であり、アイヌの小屋が数軒あったのみで、室蘭から千歳、豊平を通り発寒、銭函から小樽、余市・岩内へまたイシカリ・ユウフツを往復する小道があり、漁場へ行く出稼人が多く通っていた。 安政4年、このサッポロ越新道の開削とともにトヨヒラ通行屋の普請工事が着手されたが、4年中に中途のまま道路も通行屋の工事も中断されていた。金助はこの豊平川の渡し守・通行屋の番人として志村鉄一を任命した。 石狩役所は樺太までの管理があり、安政5年、ロシア船が樺太に来航して永住の気配があるとのことで、調査の命令を幕府から受け、石狩役所は士分8人・雇人20人が向かった。しかし、樺太の厳しい寒さなどで23人が凍死、5人が奇跡の生還をした。その中の1人に志村鉄一がいたという。 その後の安政6年に志村鉄一は豊平川の番人として定住したようであり、鉄一は足軽格となり2人扶持を給与され、夜具なども準備された。和人として札幌中心部に初めて住んだ人として札幌開祖と言われるようになったという。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2.開拓の功労者 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
未開の森林が続く豊平川東岸に定住した志村鉄一親子三人は、鉄一が通行屋番をして、息子が船の渡しを担当していたようである。西岸の渡しは吉田茂八の家族三人と居候の三平爺さんが住んでいて、主に三平爺さんが渡しを担当し、茂八は猟師として熊やキツネなどを取って毛皮商売をしていた。後に土木工事を請け負い、創成川に「吉田堀」の名を残している。 当時の豊平川は本流(豊平側)と支流(中央区側)があり、中州に太い丸太を立て、コクワのツルを繋ぎ、このツルを伝って渡し、対岸に大声で連絡して旅人を渡していたという。役人やアイヌは無料で渡し、旅人からは渡し賃をとっていた。しかし、渡し賃を払わぬ不届き者がおり、昼食を取っているうちに勝手に船を出し、渡って係留せずに逃げていくため、船が流されて不明となることがあった。 また、春の雪解けの鉄砲水で夜中のうちに大水となり、船が流されてしまい、開拓使に始末書を出すこととなり「情状やむをえまい」とのことで無罪となった裁判記録も残っている。明治2年7月、新政府は北方開拓と防備のために開拓使を設置、開拓判官に島義勇を任命した。 寒さ厳しい10月(新暦の11月15日)に銭函に到着、新道係・営繕係4名の小主典が吉田茂八宅を宿として札幌の開拓を開始した。 この時、志村鉄一が案内してコタンベツの丘(北海道神宮付近の丘)に登り、神社予定地と札幌平野を展望し、札幌本府の位置を見定めるために協力するなど、札幌開府に協力している。 しかし、初冬の開拓のために志村鉄一の管理する通行屋を創成川畔に移設して開拓使仮本陣を建てた。明治4年4月には初めて豊平の渡し場に橋が架かったため。鉄一は職務と住居と失い、一時的に定山渓の僧・美泉定山の所に寄寓したとも言われている。鉄一は「橋守願い書」を出して明治7年10月まで橋守として働いたが、その後に鉄一はある冬の朝に死去し、妻も不明で息子も間もなく亡くなったという。 開拓に功労のあった志村の姓が無くなるのは惜しいと、平岸の中目文平は次男の春三郎を明治12年に志村家養子としたが、その後、中目家も長男が死去して後継ぎが無くなったため、明治23年に養子解消の「廃家復籍願」を豊平村に提出した。その書類が現在も残っている。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3.変容する町並み | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明治2年、島義勇判官による札幌開拓はわずか4カ月余で止まったが、明治4年の岩村通俊判官着任とともに計画が本格的に始まった。開拓使庁舎・工業所など官用地と商店などの町屋地などを碁盤の目になるように道路を計画し、街づくりが進められていった。5月には豊平川に初めての橋がかかり、平岸・月寒・白石には開拓者が入植し、開墾の土音が響いていった。 豊平地区は月寒・平岸・広島村・恵庭村などからの農産物や林産物を札幌へ運ぶ中継地であった。当時交通機関は馬であり、馬に関する商店が多く、泊りがけで来る人と馬がとまる宿屋もあり、豊平で日用品や農具などを買って帰る便利な地で、肥料・雑穀・種屋・縄工場・鉄工場・病院など商工業の町として発展していった。 同じ明治4年、開拓次官となった黒田清隆はアメリカに渡り、時の農務長官ケプロンを開拓顧問として招き、トーマスやアンセチル等と来日し、開拓事業の推進と諸調査の指揮にあたった。 明治11年まで開拓使の御雇外国人は76人にもなるが、明治9年に札幌農学校を開校して教頭として招いたウィリアム・S・クラークには日本の若者に諸外国の進んだ学問を学ばせた。それは農業だけでなく、物理学・獣医学・治水土木学など開拓に必要な学問とともに簿記学・弁論術・修心学などもあり、すべて英語で行われ、ノートも英語で提出しなければならなかった。明治18年には北海英語学校が開校され、南4条西2丁目の豊水小学校立ち退き跡に移転した学校は中学校卒業資格取得のため、明治38年に北海中学校として認可された。 その後、生徒の増加により、明治41年に豊平の地に31400坪の新校舎・グラウンドが完成したのである。当時豊平地区はおよそ800世帯4800人であった。 この豊平にこのような話がある。「豊平市街があまりにも静かだ。鍛冶屋のトッテンカンの音が一つも聞こえない。『それっ』と言うことで北海中学のグランドにやって来ると案の定北海中学と他校の野球試合が始まっていた。豊平市街の鍛冶屋は全部戸を閉めて応援に来ていた」(豊平小学校百年誌)との記録がある。 開拓当時から家屋は全て木造で柾屋根であった。豊平では明治・大正時代に3回もの大火が発生している。明治33年5月、豊平村14番地のアメ製造業の佐々木方のカマドから出火した火災は235戸を焼失する大火となった。大正8年の大火では96戸の焼失家屋があり、当時の北海タイムス5月14日の記事によると「札幌消防組全員、平岸消防組、札幌警察署長以下全員、道庁警察部ほか教習生等60名が消防・破壊に協力、月寒25連隊の消防中隊ほか2個中隊が駆け付け、北海中学は出火とみるや直ちに全生徒を挙げて罹災者の救助に務め、消火に至るまで家財の運搬に助力した」とある。幾多の災害などがありながら豊平の町は発展していった。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4.電車開通で発展するまち | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大正7年、札幌は北海道と共に開道50周年迎えるため活気があった。すでに北海道は235万人、札幌には10万人を超える人が住み、本州と何ら変わらない街ができ生活していた。
札幌には明治42年に定山渓水力発電所ができ、電燈がともったが、函館には既に電燈がともり、大正2年には電車が開通していた。
時の北海道庁長官俵孫一は、何とかこの50周年記念大博覧会8月1日開会に間に合わせ札幌にも電車を走らせようと、馬鉄会社の助川貞次郎に打診した。苦労の末、開会後の8月12日3路線で開通した。博覧会は大盛況で電車も大好評、満員の電車が各会場へ走った。
豊平線は、南3条東3丁目までの開通で、その後大正13年11月、新しくなった豊平橋を渡り大門通(2丁目)まで開通、翌年には平岸街道(6丁目)まで、昭和4年に定山渓鉄道豊平駅(8丁目)前まで開通し定山渓温泉への交通網がつながったのである。大正7年に開通していた定山渓鉄道は、豊羽鉱山からの鉱石や木材の運搬と客車で温泉客を輸送していたが、市電豊平駅前までの開通で一層便利になり、また市民が豊かになったこともあり、戦争で一時減った観光客は戦後昭和25年頃からまた増えていったのである。 豊平の街は豊平〇条〇丁目で表示されているが、北海学園のある地域は旭町、その奥豊平川側が水車町と言う名がついている。この地区は主に林檎園などの農地であったが、宅地化されてきて町の区切りと丁目を付けることになり、リンゴの旭の名を付けることになった。 川岸側には粉を引く水車小屋があった名残に水車町と名付けた。一方北海中学に通学する生徒は札幌市内全域から徒歩で豊平橋を渡り通学していたが、 豊平の街は豊平〇条〇丁目で表示されているが、北海学園のある地域は旭町、その奥豊平川側が水車町と言う名がついている。この地区は主に林檎園などの農地であったが、宅地化されてきて町の区切りと丁目を付けることになり、リンゴの旭の名を付けることになった。川岸側には粉を引く水車小屋があった名残に水車町と名付けた。一方北海中学に通学する生徒は札幌市内全域から徒歩で豊平橋を渡り通学していたが、電車の延長で便利になり通学生はこの電車を利用して通うようになり、毎朝豊平駅前から学校まで生徒の行列が続いた。 創立時は250名であった生徒も昭和11年には1250名にもなったのは、当時の戸津高知校長が「人が教育出来ないというものを本当の教育」との心で生徒を受け入れ、多くの人材が育った。スポーツでは何といってもロスアンゼルスオリンピックの三段跳び金メダリスト南部忠平やプロ野球の若松勉、スキーの和田芳恵、芸能人では坊屋三郎、益田喜頓などがいるが、ここでは寒川光太郎を紹介したい。 本名菅原憲光は昭和元年卒業、小説「密猟者」で道内初の芥川賞受賞、開拓判官島義勇と豊平川の渡し守志村鉄一との札幌開拓時代の痛快な苦労話の短編小説「札幌開府」を発表している。鉄一は札幌に初めて住んだ和人として歴史に残る人物であり、豊平橋横に石碑が移設建立されており現在の豊平を見つめている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
5.遭難兵士の慰霊碑発見 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
函館の中川組が開拓使から札幌開拓の建築土木工事を命ぜられ、明治2年大岡助衛門を大工頭として130名余の人夫つれて札幌にやってきた。函館の五稜郭(函館奉行所)などを建設した中川組は当時蝦夷地の土木工事を行っていた一番の業者であり、信頼があったのである。 札幌では、札幌本陣、開拓使本庁、道路開削など主要な工事を行っていたが、明治4年大岡助衛門は独立し大岡組起こした。そして開拓使や豊平橋の建設なそを吹き受けたが、当時建物は木造で屋根は柾屋根であり、ひとたび火災が起きると大火になる。防災のための不燃建築n石切山の札幌軟石の切り出しを行い大儲けしている。その後助衛門は明治8年豊平の地に8千坪の土地にお寺を建て(経王寺豊平4条4丁目)喜捨(寄付)している。 地域の人々にはお寺や神社は先祖を祭る、無くてはならないのであり生活に密着していた。明治17年豊平の人口も増えてきたので阿部仁太郎が中心となり翁王寺境内に、小林小源太先生と児童12名で寺子屋を建てて地域のこどもの教育を済めたのである。これが現在の豊小学校の始まりであり、後にこの寺の境内には、相撲の土俵や豊平連絡所(現ちづくりセンター・地区会館併設)や豊平消防署、入口横には豊平交番などがあり、朝は地域の皆さんがラジオ体操のため遠くからも集まる豊平の中心的な地であった。 また、平成16年地域のお年寄りの話から、豊平川で起きた月寒25連隊兵士が豊平川で遭難した慰霊碑がこのお寺の裏墓地で発見された。明治37年2月、日露戦争が開戦となり月寒連隊では兵隊の訓練を藻岩山で行っていた。 当時、豊平川には豊平橋しかなかったため、連隊は真駒内の山鼻渡船場から藻岩山へ登り行軍訓練を行うべく豊平川を渡し船で渡っていたが、5月2日の訓練で重装備の上、小舟に20人も乗ったため船は転覆、3人が溺れて死亡すると言う事件が起きた。 当時の新聞によると、2人の遺体は発見されたが、1人はとうとう発見されなかった。その後盛大な葬儀が行われたが、不幸な事件のため軍には詳しい資料が残っていない様で、この慰霊碑について何も記録がなかった。 正面には遭難兵士鎮魂碑とあり、横面の碑文には当時の事件の記録が書かれ、裏面にはこの碑も建立に協力した14人の名前が彫られている。札幌市で盛大な葬儀が中央区の西本願寺で執り行われているが、49日法要はこの寺で執り行われている。どのような事でこの地にこの碑が建てられたのか、当時の豊平村の有志が亡くなった遠く長野県の2人、野幌の1人の出身者慰霊するために建てたのであろう。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6.スキーの街札幌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
来年は、北大スキー部創立百周年を迎える。明治41年にスイス人ハンス・コラー氏がドイツ語講師として北大に就任してきた。その時、教材としてスキー技術書を持参してきたもので、翌42年春にはスキーが届いた。ストックは無く、後にストックは作ったようで使用法も不明であったが、コラー先生の話術が大変上手い講義でスキー術の研究が学生達に広まったのである、が、先生にスキーを滑って見せてほしいとお願いしたが、なかなか見せてくれない。実技は苦手の様であったが、札幌郊外でスキーを滑り転倒している写真が残っているのは、学生にせがまれて滑り、転倒したところを撮られたのであろう。
学生達は豊平橋を渡った所の馬橇屋にスキーを4~5台作らせ、後に三角山でスキーを滑ったとの記録がある。 一方、大正6年3月には6名が羊蹄山にスキー登山をしている。当時豊平には馬具屋、馬橇屋、蹄鉄屋など技術職の店が多数あり注文したのだろう。そして6人の学生が発起人となりスキー部創立を大学文武会総会で可決され、事務手続きのうえ(明治45年)大正元年9月に北大スキー部は発足したのである 。昨年北大スキー部OB会長から、百年記念誌を作成するので豊平の古い地図がないであろうか、町の馬橇屋を調べてほしいとの話があった。 当時豊平の馬橇屋は鷲田馬車馬橇店と内田馬橇店である。 鷲田馬車馬橇店の二男鷲田日出久さん(74歳)は「私が子供のころ、山の手の北大スキー部合宿所に行き手伝わされたことを覚えている。父は何かと北大との関係があり、感謝状をいただいて家にあったことも覚えている」とのこと。札幌で初めてスキーを製造したのは鷲田さんであったのか、残念ながらいまは建物も変わり、父はあまり古い資料を残さなかったので何もないとのこと、当時の鷲田馬車馬橇店は現在車の修理販売業として繁栄している。内田さんは、中の島に代が変わり住まわれている。 その後、スキー部は登山と共に冬山のスポーツとして市民に受け入れられ、スキー場ができ、多くの学生や企業の団体、若者に広まっていった。 昭和4年12月7日、41団体1,966人の会員で札幌スキー連盟が発足した。会長は当時の札幌市長橋本正治氏で、事業の第一が宮様スキー大会開催であり、以来83回も続いている大会で今日では国際公認大会となっている。 そして昭和47(1972年)年2月には世界35か国1,128名の選手(日本選手90名)が参加して冬季オリンピック札幌大会が開催され、世界にスキーの街札幌が知られることとなった。 札幌で初めてスキーを製作したのは豊平の地であったのであろうか、豊平の歴史がまた一つ増えたようである。 |
|
7.札幌祭り山車巡行昔も今も |
毎年6月は北海道神宮例大祭、いわゆる札幌まつりの季節で15・16日に開催され、札幌にも短い夏が来たと北海道の人々は感じるのである。
明治2年北海道開拓の神として函館から開拓判官島義勇が自ら奉じ雪の中原生林を越え小樽の銭函に入り、一時ここに奉安し、その後札幌に移され、明治4年5月14日札幌神社と名が付き、9月14日、現在の円山の地に遷座された。開拓三神をおまつりしていたが、昭和39年明治天皇をおまつりし、北海道神宮と改称され北海道の総鎮守として尊崇されている。 | このお祭りの巡行、札幌市内31地区の中で年番を引き受ける10祭典区ほどが廻り当番で行っている。豊平地区は第八祭典区であり、当番となっている。昨年10月に菊水地区から引継ぎを行い、北海道神宮事務所の指導を受けて準備をしてきた。まず役員を決っていする、最高責任者を講長と言い、以下渡御、儀典、用度、交通などの役員が決まり、神輿である4基の鳳輦、猿田彦、稚児なご600名になる渡御行列計画が出来る。またコースを決め、その他準備をして各祭典区や関係機関に案内をするなど計画を進めてきた。 日本人は山を神霊として崇拝してきたが、まつりに神聖なる山の模型を作り賑やかに繰り出したのが山車(だし)の起源と言われている。札幌まつりは明治11年から始まったが、山車がいつ頃から始まったかは記録がないので分からないが、10年代に始まったと思われる。現在8台の山車があるが、明治末期から大正の初めに造られた物で、大正7年には12台があったと言う。 豊平には一台あるがその歴史を見てみると、昭和の始めころ、豊平橋横の阿部与之助家の土地に小屋を建て、7・8・9祭典区の共有の山車があったが、戦争のため魔祭りは昭和18年で中止となってホコリを被っていた。22年祭りは再開され、24年豊平祭典区が年番となった。豊平にあった山車は使用出来ない程であったので、第1祭典区の山車が2台あるとの事で、(実際には第大通祭典区であったらしい)借りて巡行した。その後2・3年は借り物の山車でまつりに参加していたが、買ってほしいとの話があり百万円、10年年賦で買い入れた。山車には衣装58枚と、人形(加藤清正・弁慶・菊水・不明一体)が付いていたが、山車には傷みがあり、手直し、塗り直した。 現在は加藤清正の人形が豊平の山車として親しまれ、今年は6月16日北海きたえーる前を出発し美園、豊平から頓宮、4丁目三越前、大通りへと札幌の街を華麗に巡行する。 |
|
8.歴史を刻む2基の石碑 |
|
平成16年、経王寺墓地で発見された遭難兵士鎮魂碑の他にも石碑があった。この碑の2つ横にあった學壱太田文之助碑である。横面の碑文は年号や一つひとつの文字は読めるものもあるが文章としてはほとんど読めないので、専門家にもお願いしたが、独特のもので不明のまま3年が過ぎたある日、豊平小学校の創立80年誌の座談会の記事にこの事件のことが語られているのが分かった。 |
|
9.札幌保育園誕生 |
|
明治37年2月、日露戦争が開戦されたが、国や道は出征家族の生活扶助の一つとして保育所の開設を奨励した。札幌区役所は開設を検討したものの終戦となり実現しなかった。しかし函館慈恵院が1年ほど開設した様であるが、資料が残っていないので詳細は不明である。また軍人遺族会が13歳未満の児童の保護として孤児院を開設し、幼児も保護された記録が残っている。 |
|
10.豊平共済墓地 |
|
開拓が始まった明治2年、札幌では死者が出ても葬る場所がなく、家の周辺か近くの山林に埋葬する時代が続いた。また、僧侶もいなかったため、近所のお経の読める人で形ばかりの葬儀を行うか、遠く石狩から僧侶を呼ぶしかなかった。石狩には5つのお寺があり僧侶もいたので夏場には何とか来てもらえたが、冬場には雪のため身内で済ませる状態であった。明治4年山鼻村に暁野墓地が出来たが、札幌から遠いとのことで、あまり利用されず依然として付近の山林に埋葬する者が多かった。 |
|
11.地域の守り神
豊平神社 |
|
本年7月豊平神社は鎮座130年を迎える。昨年6月に北海道神宮より、豊平神社宮司(故三橋文憲宮司)が、「御分霊奉迎祭執行届」のコピーを頂いた。このコピーは、「明治18年豊平村に於いて五穀豊穣のため仮宮を建設し札幌神社から御分霊を奉迎し、7月14日・15日に祭祀をしたい」との届を札幌神社杉戸大角宮司より札幌縣令調所廣丈氏代理札幌縣大書記官佐藤秀顕氏に宛てた文書である。明治2年、新政府は北海道の開拓使を設置し判官島義勇を本府設置のため北海道に派遣され、札幌の街づくりが進められたが、現在の国道36号線豊平橋付近からの豊平地区にはいち早く永住者が増えてきた。 ※令和7年、補正追記
現在3代目(三橋文憲)、4代目(三橋昌功=文憲氏の二男)と続いたが、いずれも病気により幽したため、現在厚別神社三橋國昭(文憲氏の弟)宮司が兼務宮司を務めている。令和7年には、5代目宮司として三橋充佳禰宜(文憲氏の三男)が宮司に昇格就任予定である。 |
|
12.国道36号線 |
|
豊平には室蘭、千歳から札幌、小樽に通ずる国道36号線がある。安政4年銭函から千歳間の道路開削が行われたが、石狩役所調役荒井金助より一時中断された後、通行屋建築と共に開削され、銭函までの道が整備された。明治2年に開拓使ができ、札幌の街づくり始まったが、御雇教師ホーレス・ケプロンの提案により札幌に通ずる主要道路を設けるべきとの提言で、明治5年函館~森間、及び室蘭~札幌間の札幌本道が成した。札幌市民には室蘭街道の名で親しまれるようになったのである。 |
|
13.生活用水であった4号用水路 |
|
明治4年、平岸に岩手県水沢から62戸203人開拓民が入植し生活が始まった。3棟の長屋に取り敢えず入居、共同の炊飯で開墾が始まったが、まず生活用水の確保に困り、早速深い井戸を3か所程掘ってみたが飲み水には適しなく、断念しなければならなかった。毎日豊平川や精進川へ水を汲みに行かなければならなく、炊事、洗濯、お風呂にと多くの水が必要で、特に冬の水汲みは大変な重労働であった。そこで人々は精進川から水を引く用水堀50余町(5.3㎞)をわずか40日で明治6年8月に完成させたのである。平岸から豊平を通る用水路堀は現在の北海学園前道路の右側を通り菊水に入る用水掘で、4号用水路(堀)と名付けられ地域住民に親しまれ、生活用水として昭和30年代まで多いに利用された。 |
|
14.札幌の大地主
藪惣七 |
|
私の手元に地元の町内会の創立記念誌がある。「ふれあい八二」の題名が付いているが、この町内会の住所は豊平の1条から3条の2丁目から3丁目の町内会であり、以前どうして八二と付いているのかと聞かれたことがあるが、当時はあまり知らなかったので答えることが出来なかった。当時この付近には八二稲荷神社や八二館という映画館があり、八二湯や八二市場もあった。映画館はヤブ館とも言われ、映画と共に芝居も興行し人気があったが、どうしてその様な名前であろうと多くの人たちは思いながらも親しく呼ばれていた。 |
|
15.鋼鉄製豊平橋 |
|
大正13年多くの水害で幾度となく流されていた豊平橋が3年の工事を要して鋼鉄製タイドアーチ型の橋となって完成した、明治43年の大水害で市内の橋のほとんどが流されたり、壊れて被害を受け、豊平橋も以来仮橋の時代が続いていたのである。完成式には時の若槻内務大臣も出席され、カワラには6万人余の完成を祝う人々であふれた。この橋の完成と共に現在の中央区東3丁目まで来ていた電車の路線も橋を渡り豊平の大門通りまで繋がった。昭和4年には豊平8丁目定山渓鉄道豊平駅前まで伸びた。明治4年開拓使は札幌の開拓に入ってきた労働者を引きとめるため、すすきのに遊郭を設置したが大正7年開道50周年を迎え、博覧会を開催しようと中島公園に会場を予定したが途中にある遊郭を移転させることになり、白石の菊水地区に移転したのである。 |
|
16.やがて消えゆく歩道橋 |
|
平成26年3月4日豊平地区横断歩道橋に関する連絡協議会では、豊平8丁目の横断歩道橋について地元の意見として開発局に対して撤去を要望することを決定した。5年ほど前に地元町内会から歩道橋を撤去してほしいとの要望が地域の議題として連合町内会にあった。会議の結果、関係者による協議会を開催することとなり、商店街組合、近隣町内会、豊平小学校、交通指導員会、交通安全母の会、札幌道路事務所、調整を取って戴く豊平区総務企画課、オブザーバーとして豊平警察署、建設局道路管理課などが参加され昨年10月21日の第1回の会合の結果、撤去に反対はなかったが、冬期の利用状況を調査し結論を出すこととなった。 |
|
17.福祉事業の生まれた街
豊平 |
|
私が中学生の昭和30年頃、友人に豊平生まれと言えば6番地の息子か?貧乏人の町、と言われた記憶がある。昭和2年の新聞に「豊平市街は一本町であった。豊平橋の袂から西に折れて行く水車通へゆく方面に、汚い小路が一本あったきりである。ひどい貧民長屋がたむろをなしていて、夏は臭くて通れなかった」とO氏が記している。明治の初めから豊平は、豊平橋を渡り国道の左右に農具や馬車馬橇製造、鍛冶屋や味噌醤油の製造業の店が並び繁栄していたが、一本南の仲通りに入ると軒先の低い長屋があり、身なりの貧しい人々が住まっていた。 |
|
18.私が育った思い出の豊平 |
|
市電豊平8丁目終点の西側仲通り生まれた私は、小学校4年生までここで戦後の慎ましい生活や、大雪で1階の屋根まで雪が積もり部屋が暗くなる程の冬を経験しながら育ってきた。定山渓鉄道豊平駅が市電豊平駅終点の向かいにあり、寿山系温泉へ行く人々や鉄道沿線石山方面に住宅ができ、通勤の人々も増えていった豊平の中心地でもあった。毎朝市内に通勤するサラーリーマンと北海高校、札幌商業高の生徒がぞろぞろと学校まで続く姿が印象にあり、小さかった私には大きな学生が大勢通学するなーと感じて見送っていた思い出がある。 |
|
|
〒062-0906 札幌市豊平区豊平6条7丁目1番12号(豊平まちづくりセンター内)
電話:011-811-9435 FAX:011-811-9439